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掌編_201001_潜水教室

 次の八月で、市来が魔法使いのために潜水教室を開いてから三年が経つ。とはいえ、彼女はその三年のうち一年を、賢しい蛇のような薬物中毒の症状から脱するために海の底で悶え苦しむことに費やしたから、実際に店を開いていたのは二年程度ということになる。一年前、どん曇りの昼下がり、日本海の底から帰ってきた市来は、たった一言、譫言のように「地獄を見た」と言って潜水教室のソファに倒れこみ、そのまま三日三晩眠り続けたのであった。



 潜水教室は実際には潜水を教える教室ではない。何しろこの県には海がない。だのに時折問い合わせが来る。耳抜きの仕方を教えてください、ダイビングの免許を取りたいんです、生身の人体で潜れるところまで潜りたいんです……そういった問い合わせに動詞の命令形一語で答えるために私は雇われている。「いきめ」「取れ」「潜れ」。たいていの質問はこの返答でどうとでもなる。



 市来は薬物への渇望と一緒に食欲も海淵に置いてきたようだった。たまに思い出したようにシリアルを二口程度食べるだけで、それ以外のものにはほとんど手をつけない。着ている半袖のシャツから容易く折れそうな細く白い腕がのぞいている。まるで汗はかいていなかった。一方で自分は、うだるような夏の暑さに辟易していた。額の汗を手首まで伸ばしたシャツの袖で拭って、氷ばかりのグラスをあおった。溶けた冷水が少しだけ口内を潤したと同時、デスクの上の電話が鳴ったので、出る。今回は「潜れ」のパターンだった。一言で電話を切った後、市来に「海の底は寒かった?」と聞いてみる。

 

「……海の底? どうだろう。まあでも、冬の寒さ程度なんじゃない?」

 市来が薬物を摂取しはじめたのは開業して一ヶ月、私を雇いはじめた直後だったらしい。他の魔法使いに勧められた薬物に抗えなくなったのだという。ミイラ取りがミイラになったわけだ。

 市来に薬物を与えたのは彼女の競合、つまり何らかの依存を抱える魔法使いを海の底に縛り付けて強制的に依存対象から隔離することで報酬を得ている魔法使いだったらしい。が、この人物はなかなか悪どい商売をやっていた。アルコール依存患者には薬物を、薬物依存患者にはアルコールを投与していたのである。海の底で何かを断ち切る代わりにまた別のものに依存させる。アルコール依存症から抜け出した魔法使いが、陸に上がる頃には立派なヤク中に様変わりし、その内生活が成り立たなくなって、また海の底に縛られに来る。要するにリピーターを作って商売を回しぼろ儲けしていたのであった。グラスに水を注ぐ。飲む。

 

 その人も大変そうだったけどね……市来は自身を底のない薬物の湖に落とした魔法使いのことを、昔の恋人を懐かしむような声音でいつも話す。あんまり大っぴらにあんな商売はできないから、何回も何回も海と陸を往復して物資を運んでた……胸の下にパケをいっぱい隠したり……酸素ボンベの中にお酒詰めて、海底まで頑張って息を止めたり……凄まじい商売根性だったなあ……挙句の果てにわたしの客にも手を出して、それでトラブっちゃったわけだけど……

 自分の客にちょっかいをかけられた市来は海底で猛烈に怒り狂い、マントルを小突いて小さめの地震を起こして始末書を書いた。その後、悪徳魔法使いをひっ捕らえんと海底に張り込み、不届き者が市来の客の静脈に注射針を沈めんとしている現場を押さえたのであった。

 

 さていかほどの金をぶん奪ってやろうかしらと思ったんだけど、あいつ、現金が一銭もなかったんだよね……全部酒と薬に回してたから……

 

 悪徳魔法使いにとって、酒と薬は新しい客を呼び込むための投資であり、そして自身の生きる目的でもあった。自身もシャブ中でありアル中だったのである。ミイラが先かミイラ取りが先か分かったものではない。

 窮じた市来は薬を魔法使いから全て奪い、適当なルートで売り捌いて現金を作ろうと講じた。

 でもそういう取引ってやっぱり信頼が大事でさ……叩きとかにもいっぱい遭ったし……全然うまく捌けなくて……なんか疲れちゃって、気付いたら自分が使っちゃってたんだよね……

 

 市来がソファに仰向けに寝転んだまま、煙草を咥えて火を点けるのがデスクから見えた。水を飲む。この狭い潜水教室では彼女の一挙手一投足を眺めることができる。市来は海から帰ってきてから、頓に煙草を吸うようになった。銘柄にはまるでこだわっておらず、その時に身に着けている腕時計が何時を指しているかで吸う煙草を決める。いまは午前十時十七分だから、十足す十七で二十七番の煙草を下さい、といった具合に。コンビニの店員も最初は訝しんでいたが、最近は市来が来店すると時計を自主的に確認し、午後五時半なんで今日は三十五番ですか? あ、それとも十七時半で四十七番のパターンにしますか? などと声をかけてくるようになったらしい。

 

「ずっと吸えなかったからいいでしょ、煙草くらいはさ」

 喫煙量を咎めると、いつも市来はこう答える。魔法使い間の取り決めで、海底は火気厳禁となっているらしい。炎が明るすぎて、長く海の中に居る人々の目が潰れてしまう可能性があるためだ。

「そもそも海の底で火なんか点けられるの? 薬も酒もそうだけど」

 ……それはもう、なんたってわたしたちは魔法使いだから……やろうと思えば、工夫でなんとかね……

 そう言って市来は様々な「工夫」の話を聞かせてくれたのだが、その間に五回も電話が鳴った。「取れ」「潜れ」「潜れ」「取れ」「いきめ」だった。深海の水圧に耐えうる専用の注射器、腕を縛れば静脈だけを淡く発光させることができるゴムバンド。全て例の魔法使いが用いていたと思われる「工夫」の話を長い時間をかけて聞いた。「そうなんだ」と私が言うと、市来は何故かばつが悪そうな顔をした。それから、話題を変えるように「祢津は煙草を吸わないよね」と続けた。

「吸わない。試したことはあるけど、匂いが苦手で」

「酒も飲まないよね」

「飲めないこともないけど、まあ付き合いでしか口にしないかな。体質的にあまり受け付けないし」

「祢津はさ、レシピに『適量』って書いてたら、本当にちょうどいい『適量』をすぐに見つけて美味しい料理を作れるタイプ? わたしはもう全然ダメ。適量が分かんない」

 そう言って、市来はフィルターぎりぎりまで吸った煙草をうず高く吸い殻が積まれた灰皿に入れると同時、エアコンがごうんと音を立てた。水を飲む。

「祢津は何かに依存してるなって思う時ある?」

「分からない。そもそも自分が依存してるかなんて、分かるもんじゃないでしょう。側から言われて初めて気がつくものであって」

 しばらく間を置いて、市来はソファから起き上がった。緩慢な動きだった。まだ水圧に苛まれているみたいだった。市来が再び煙草に手を伸ばし、ライターを持った。一瞬、火を点けるか点けないか迷うような顔をしたが、すぐに気の抜けた音がして煙草の先に炎が宿る。大きく煙を吸い込んで、吐き出したあと、市来は「分かるよ」と言った。

 自分が何に依存しているかの見極め方を祢津に教えてあげる。『自分は依存してない』って一瞬でも思ったものに依存してるよ。自分はまだ大丈夫、平気だって思いながら楽しんでるんだけど、正気に戻る瞬間が必ず訪れる。わたしは正気なんて大嫌いだ。素面の間は、自分がこんなにくだらない酩酊の虜になってるって気付いてる。でも快楽におもねって、自分が自分に嘘をつく。その嘘も辻褄が合わなくなってくる。どこからが嘘だったかも忘れてしまう。正気に戻った瞬間に鏡を見ると、自分がひどく絡まった毛玉みたいに見える。きれいに編むために手に入れたはずだったのに、なんでこんな役立たずのゴミに?

 市来が話し終えた後、潜水教室に沈黙が降った。水を飲む。ガラス戸から陽が射して、霧雨がヘッドライトに照らされるような具合で舞い上がった埃がちらちらと光るのが見えた。水を飲む。暑かった。寒かった。水を飲む。

「祢津」

「なに」

「もう七月も終わるね」

「そうだね」

「長袖暑くないの?」

「大丈夫」

「ひどい汗。エアコンだって付いてるのに」

「あ、また電話鳴ってる」

「鳴ってないよ。ねえ祢津、また海行こう。前行ったじゃん。わたしはもう病院ですっかり懲りた。二度と薬はやらない。祢津もさ、半袖着てさ、海に」

「電話が、ほら、鳴ってる。あ、この電話は魔法使いの人じゃない? またさ、海の底にさ」

「祢津。鳴ってないよ。電話は、鳴ってない」

 違う……ごめん……やっぱ電話鳴ってたね……この電話番号は、魔法使いの電話番号だ……もしもし? はい、そうです……潜水教室です……そうですね、海の底に沈めるだけなので特にそちらでご用意いただくことは……あ、でも契約の際に必要なのは……えっと……

「魔法使い免許と普通の免許か身分証明書、あと判子。市来、しっかりして」

 そう……魔法使い免許と普通の免許か身分証明書、あと判子が必要になります……はい、ありがとうございます……では潜水教室でお待ちしておりますので……失礼します……

「祢津」

 祢津……ありがとう……久しぶりのお客さんで色々忘れちゃったよ……そう、で、さっきの話なんだけど……

「また、海、行こうよ」



 地獄を見ている。水圧で身体が軋む。皮膚の内側から寄生虫が自分の肉を食い漁っている。肺の中にこれっぽっちも酸素は残っていない。身体中に絡まった糸を一本一本丁寧にほどいている。最後の一本が自分の身から離れたとき、この身体は浮力によってゆっくりと浮かび上がるだろう。暗い深海からゆっくりと光の射す方へ。水圧の急激な変化に絶えきれず、身体は膨張する。私とともに死に絶え、腹を見せて浮かび上がる種々の海洋生物。やがて、眩しすぎる水面から細い腕が現れる。市来。市来。市来。

 

*同人誌みたいな掌編です