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本を読むのも文章を書くのもだるい

(23:01)

 

本を読むのが段段面倒くさくなつたから、なるべく読まないやうにする。読書と云ふ事を、大変立派な事のやうに考へてゐたけれど、一字づつ字を拾つて、行を追つて、頁をめくつて行くのは、他人のおしやべりを、自分の目で聞いてゐる様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなささうな気がする。ー「風呂敷包」内田百閒

 

本を読むのがすっかりだるい。何を読んでも頭に入らない。開いた頁のあっちこっちに目を飛ばして「ああ分からんなこれは」と思ってすぐに本を繰る。けれど前の頁をしっかり読んでいないのだから分かるはずもなく、「何を書いとるんだこいつは」とぷんぷんしながらまた頁をめくる。

 

年を経るごとに文学や音楽、映画に対する感度が鈍ってゆくのを感じる。すっかり不感症である。にもかかわらず、道行く柴犬を見たりベンチに置き忘れられた缶コーヒーを見ると涙腺が少し緩むのだから不思議だ。感動をうまく処理できなくなっている。いい話を聞くにつけ、きっと何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。だからこそ、日常に微かで優しい暮らしの光が差し込んだ瞬間、「勘ぐり器官」を飛び越えて直接涙腺がゴーサインを出すのだと思う。生感みたいなものにずっと弱い。

 

人の書いたものを読まない様にして、自分が人に読ませる原稿を書いてゐるなども、因果な話である。人間の手は、字を書くのに使ふものではなさそうな気がする。ー「風呂敷包」内田百閒

 

しっかり書くのも面倒だから、手癖ばかりで推敲も何もない文章を、いまこのようにしてしたためている。とはいえ、少し前まではタイピングすることすら億劫だったのだから進歩だと思う。Mac book Air(もうすぐ六歳。人間でいうところの九十八歳)の容態がよくなったのもあって、テレビを観て、ウイスキーの水道水割を飲みながら、このようにして雑記を書くことも容易い。

 

読むのも書くのもだるい。こういう時は相応の時間が経つのを待つか、よっぽど面白い本に出会わない限りはどうしようもない。以前このような状態に陥ったのは去年の九月ほどだったように思う。何を読むにも頭の中で安易なモテに走る男の部屋に置いてあるアロマディフューザーが焚かれているようにぼうっとして、まるでダメだった。その時は面白い本に出会う余裕もなかったから、年越しまではあまり本を読まなかった気がする。

 

高校生の時分は親も学校もあまりうるさくなかったから、国道沿いのマクドナルドで本を読んでよく遅刻していた。のだけれど、やっぱり本を読んでも面白くない時期が訪れて、あららどうしようかと思っていた時に、ボルヘスの『伝奇集』を手に入れた。もちろん読めるはずもなく(今も読めない)、「は!?!?!?!?読めないんですけど!?!?!?!?!?!?」と怒りながら、溶けた氷ばかりのコーラを啜っているうちに、また読書が面白くなりはじめたのを思い出している。難解な本に当たるというのも良いかもしれないですね。何回読んでも頭が破裂しそうになる円城塔の『文字禍』とか、再度挑戦してみようかしら。(23:21 20分)